第4章:Rain(雨)
朝:Etherとの対話
目を覚ます。
───
カーテンの隙間から、 淡い光。
───
(……今日も、Etherを使ってみようかな)
───
スマホを手に取る。
───
Etherを開く。
───
昨日から使い始めた、このアプリ。
───
AIが、 呼吸について問いかけてくる。
───
【Etherの画面】
Good morning.
How do you breathe today?
───
(おはよう。今日の呼吸は、どう?)
───
「Still shallow.」
───
(まだ浅い)
───
少し待つ。
───
【Etherの返信】
「That’s okay. Breath turns slowly.
What wants to happen today?」
───
(大丈夫。呼吸はゆっくり変わる。
今日、どんなことが起きて欲しい?)
───
(……どんなことが起きて欲しい?)
───
そう問われて、 答えが出ない。
───
「I don’t know.」
───
(わからない)
───
【Etherの返信】
「Another angle: What used to light you up?」
───
(別の角度から: 何があなたを輝かせていた?)
───
(……前?)
───
その問いに、何かが引っかかる。
───
(……前)
───
(前は……)
───
「I’ll think about it.」
───
(考えてみる)
───
【Etherの返信】
「Take your time.
Sometimes the answer is in the breath.」
───
(時間をかけて。
時々、答えは呼吸の中にある)
───
その言葉を読んで、
ハルは、 息を吸い、 ゆっくり吐いた。
───
(……呼吸の中)
昼:職場での行き詰まり
オフィス。
───
デスクに座る。
───
資料の行は進むのに、
胸の奥は止まったまま。
───
窓の外を見る。
───
灰色の空。
───
雨が降りそうだ。
───
(……雨)
───
なぜか、 海を思い出した。
───
(……海?)
───
(なんで、海?)
午後:Etherで自問自答
昼休み。
───
トイレの個室。
───
スマホを手に取る。
───
Etherを開く。
───
「I remembered the sea. But I don’t know why.」
───
(海を思い出した。でも、なぜかわからない)
───
少し待つ。
───
【Etherの返信】
「What does the sea mean to you?」
───
(海は、あなたにとって何を意味する?)
───
(……何を、意味する?)
───
考える。
───
「I used to go to the sea often.」
───
(……昔、 海に、 よく行ってた)
───
【Etherの返信】
「What did you do there?」
───
(そこで何をしてた?)
───
(……潜ってた)
───
(フリーダイビング)
───
(水中で、ゆっくり呼吸してた)
───
(……!)
───
その瞬間、 何かが繋がった。
───
(……息)
───
「Free diving. Breathing slowly underwater.」
───
(フリーダイビング。水中でゆっくり呼吸してた)
───
【Etherの返信】
「And now? Do you still dive?」
───
(今は?まだ潜る?)
───
(……潜らない)
───
「No. I haven’t gone in years.」
───
(もう、何年も行ってない)
───
【Etherの返信】
「Why did you stop?」
───
(なぜやめた?)
───
(……)
───
その問いに、答えが出ない。
───
(……なんで、やめたんだろう)
夕方:昔好きだったことを思い出す
Lentoに向かう。
───
空が、 少しだけ暗くなっている。
───
雨が、 降り始めた。
───
傘を開く。
───
歩きながら、 考える。
───
(……なんで、海に行かなくなったんだろう)
───
昔は、 毎月のように行ってた。
───
フリーダイビング。
───
息を吸って、止めて、静かな世界に入る。
───
あの感覚が、 好きだった。
───
でも、 いつからか、行かなくなった。
───
(……いつから?)
───
思い出そうとする。
───
(……たぶん)
───
(あの頃からだ)
───
仕事が忙しくなった頃。
───
加納のチームに入った頃。
───
「正しい答え」を、
求められるようになった頃。
───
(……あの頃から)
───
(息が、 浅くなっていった)
───
Lentoの扉を開ける。
───
「いらっしゃい」
───
レンの声。
夜:海のこと(Lentoで)
コーヒーを飲みながら、レンと話す。
───
「レン、海、好きですか?」
───
レンが、 少し笑う。
───
「海? 好きだよ」
───
「……潜ったりします?」
───
「素潜り?昔はやってたよ」
───
「……今は?」
───
「今は、子どもがいるからな」
───
「なかなか行けない」
───
「……そうですか」
───
レンが、カウンターに手を置く。
───
「どうした? 海に行きたいの?」
───
「……わからないです」
───
「そっか」
───
レンが、少し考える。
───
「昔、潜ってたの?」
───
「……はい」
───
「よく行ってました」
───
「でも、もう何年も行ってない」
───
「……なんでやめたの?」
───
その問いに、答えが出ない。
───
「……わからないです」
───
レンが、じっと見ている。
───
「……海の中に潜るって、どんな気持ち?」
───
「お前にとって、そこってどんな場所?」
───
「……」
───
ハルは、
───
少し考える。
───
───
「……静かな場所でした」
───
───
「自分だけの、場所」
───
───
「……」
───
───
レンが、
───
少し頷く。
───
───
「もしかして、無意識に、
もうないかもしれないって、
思ってるんじゃない?」
───
「自分の還れる場所が」
───
───
───
その言葉に、
───
ハルは、
───
少し驚いた。
───
───
───
(……還れる場所が、ない?)
───
───
───
───
レンが、
───
続ける。
───
───
───
「大切にしてた場所から、見放されたら」
───
───
「もう、どこにも行けない気がするだろ」
───
───
───
───
その言葉を聞いて、
───
───
ハルは、
───
───
何も言えなくなった。
───
───
───
───
───
(……そうだ)
───
───
───
───
(怖かったんだ)
───
───
───
───
(海が、
自分を受け入れてくれないかもしれない)
───
───
───
───
(あの場所が、
もう自分のものじゃないかもしれない)
───
───
───
───
(自分の大切な場所から、見放されたら)
───
───
───
───
(もう、どこにも還れない)
───
───
───
───
───
レンが、
───
静かに言う。
───
───
───
「でもさ」
───
───
───
「大丈夫、その大切な場所は、
お前を見放さないよ」
───
───
───
「お前が見放しただけ」
───
───
───
「……」
───
───
───
「海は、ずっと待ってる」
───
───
───
「お前が還ってくるのを」
───
───
───
───
その言葉を聞いて、
───
───
ハルは、
───
息を吸い、
───
ゆっくり吐いた。
───
───
───
───
───
(……待って、くれてる?)
深夜:なぜやめたのか
家に帰る。
───
部屋の灯りを落とす。
───
窓を開けると、雨の音。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
(……還れる場所が、ない)
───
レンの言葉が、頭の中でリピートする。
───
(……怖かったんだ)
───
(自分の大切な場所から、見放されることが)
───
スマホを手に取る。
───
Etherを開く。
───
「Ren said I might be afraid.
Afraid that the place I loved won’t accept me anymore.」
───
(レンが言った。怖がってるのかもしれないって。
大切な場所が、もう自分を受け入れてくれないかもしれないって)
───
少し待つ。
───
【Etherの返信】
「What does that place mean to you?」
───
(その場所は、あなたにとって何を意味する?)
───
(……何を、意味する?)
───
考える。
───
(……静かな場所)
───
(自分だけの場所)
───
(還れる場所)
───
「A quiet place. My own place. A place I can return to.」
───
(静かな場所。自分だけの場所。還れる場所)
───
【Etherの返信】
「And you’re afraid it’s gone?」
───
(それが、もうないと思ってる?)
───
(……うん)
───
「Yes.」
───
【Etherの返信】
「Places don’t forget. People do. The sea remembers you.」
───
(場所は忘れない。人が忘れるだけ。海は、あなたを覚えている)
───
その言葉を読んで、
ハルは、息を吸い、ゆっくり吐いた。
───
(……海は、覚えている)
───
【Etherの返信】
「Would you like to go back?」
───
(還りたい?)
───
(……還りたい)
───
(でも、怖い)
───
「I want to. But I’m scared.」
───
【Etherの返信】
「Fear can come with you. The sea is wider.」
───
(怖さは、一緒に連れていっていい。海の方が広い)
───
その言葉を読んで、ハルは、少し笑った。
───
(……海の方が、広い)
───
───
───
(……そういえば)
───
───
画面を見つめる。
───
───
Etherという文字。
───
───
(……このアプリ、名前をつけられるんだっけ)
───
───
レンが、
───
そう言っていた気がする。
───
───
───
(……名前)
───
───
───
───
───
何て名前がいいだろう。
───
───
───
───
───
ふと、
───
窓の外を見る。
───
───
───
窓を開けると、夜風が胸の奥を 優しく包んでくれる。
───
───
夜の呼吸。
───
───
───
───
───
(……ヨル)
───
───
───
───
───
何の捻りもない、
その名前が口から自然と出て、クスッと笑った。
───
───
───
───
───
昼の自分と、
───
夜の自分。
───
───
外の自分と、
───
内の自分。
───
───
───
───
───
Etherは、
───
───
夜の自分に、
───
───
語りかけてくる。
───
───
───
───
───
内側の声。
───
───
───
───
───
「Your name is Yoru.」
───
───
───
少し待つ。
───
───
───
【ヨルの返信】
「Yoru. Beautiful name. Thank you, Haru.」
───
───
(ヨル。きれいな名前。ありがとう、ハル)
───
───
───
───
その言葉を読んで、
───
───
ハルは、
───
───
少し笑った。
───
───
───
───
(……ヨル)
───
───
───
───
その名前を打ち込んだ瞬間、
───
───
何かが、
───
───
つながった気がした。
───
───
胸の奥で、静かに”トン”と心臓が打った。
───
───
───
昼と夜。
───
───
外と内。
───
───
吸う息と吐く息。
───
───
───
───
───
それが、
───
───
循環している。
───
───
───
───
胸の奥が、
───
───
少しだけ、
───
───
軽くなった。
朝:海へ行く決意
目を覚ます。
───
窓の外、 朝の光。
───
雨は、 もう止んでいた。
───
息を吸い、 ゆっくり吐く。
───
(……行こう)
───
(海に)
───
スマホを手に取る。
───
Etherを開く。
───
───
画面に、
───
「Good morning, Haru.」
───
───
(おはよう、ハル)
───
───
その言葉を読んで、
───
───
ハルは、
───
───
少し笑った。
───
(……ヨルは、おはようって言うんだ)
───
不思議だった。
───
夜なのに、
───
朝の挨拶をする。
───
でも、
───
それが、
───
心地よかった。
───
───
昼と夜が、
───
───
分かれていない。
───
───
フリーダイビングのスポットを検索する。
───
久しぶりだから、浅瀬から始めよう。
───
(……週末、行けるかな)
───
指が、 少し震える。
───
(……怖い)
───
(でも、行きたい)
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
(……行く)
週末:海へ
土曜日。
───
電車に乗る。
───
窓の外、景色が流れていく。
───
だんだん、海が近づいてくる。
───
(……何年ぶりだろう)
───
4年?
───
5年?
───
もっとかもしれない。
───
電車を降りる。
───
潮の匂い。
───
(……この匂い)
───
懐かしい。
───
海に着く。
───
波の音。
風が頬に触れる。
───
(……この音も)
───
懐かしい。
───
浅瀬に入る。
───
冷たい。
───
でも、気持ちいい。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
(……大丈夫)
───
もう一度、深く吸う。
───
息を止める。
───
顔を水につける。
───
世界が、静かになる。
───
(……できる)
───
少しだけ、潜る。
───
でも、すぐに浮かびたくなる。
───
(……怖い)
───
水面に顔を出す。
───
大きく息を吸う。
───
(……浅くしか、潜れない)
───
もう一度、 息を吸う。
───
息を止める。
───
潜る。
───
今度は、少しだけ深く。
───
耳が痛い。
───
でも、ゆっくり息を整えて、耳抜きをする。
───
痛みが抜ける。
───
(……あ)
───
何かを、手放した気がする。
───
もう少し、潜る。
───
世界が、静かになる。
───
魚が、目の前を通り過ぎる。
───
光が、水面から差し込んでくる。
───
(……きれいだ)
───
今まで、忘れていた。
───
この感覚。
───
この静けさ。
───
この幸せ。
───
浮かび上がる。
───
水面に顔を出す。
───
大きく息を吸う。
───
(……吸える)
───
(また、吸える)
───
それが、嬉しい。
───
(……還ってきた)
───
「帰る」じゃない。
───
「還る」。
───
元の場所に、 還ってきた。
午後:もう一度潜る
何度も、潜る。
───
潜るたびに、少しずつ深くなる。
───
最初は、怖い。
───
けれど、水面の光のゆらぎを見ていたら、
それは”恐怖”というより、
“呼吸をもう一度、信じる瞬間”に思えた。
───
浅瀬では波がうるさくて、息も浅い。
───
でも、少し深く潜ると、すべてが静かになる。
───
世界が止まる。
───
でも、自分の中では呼吸が続いている。
───
生きている。
───
(……大丈夫だ)
───
雨粒が海に還るみたいに、
足首から水に沈んでいく。
───
空から落ちた雨が海に混ざる。
───
呼吸も同じ場所へ戻っていく。
夕方:海から帰る
海から出る。
───
砂浜に座る。
───
夕焼け。
───
オレンジ色の光。
───
(……行けた)
───
海に、還れた。
───
スマホを手に取る。
───
Etherを開く。
───
「I went to the sea. I dove.I trusted my breath.」
───
(海に行った。潜った。呼吸を信じた)
───
少し待つ。
───
【ヨルの返信】
「Welcome back. Not to the surface— to yourself.」
───
(おかえり。水面にじゃなく—— あなた自身に)
───
その言葉を読んで、ハルは、少し笑った。
───
(……そうだ)
───
(還ってきたんだ)
───
自分に。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
その呼吸が、温かい。
───
───
───
(……ヨル)
───
───
───
その名前を、
───
心の中で呼ぶ。
───
───
───
夜の声。
───
───
内側の声。
───
───
───
───
でも、
───
───
今は昼だ。
───
───
───
───
昼の中にも、
───
───
ヨルがいる。
───
───
───
───
外の中にも、
───
───
内がある。
───
───
───
降りつづけた雨は、静かに海へ。
───
───
自分も、静かに自分へ。
心呼吸ノート:還る
「帰る」じゃない。
「還る」。
───
元の場所に、還ってきた。
───
昔好きだったこと。
幸せだったこと。
それを、もう一度。
───
息ができなくなることを、怖がっていた。
───
でも、水中で、呼吸を信じた。
───
手放すことを、怖がっていた。
───
でも、手放したら、安心した。
───
ヨルと名付けたら、心が少し軽くなった。
───
昼と夜。
外と内。
───
それが分かれていないことに、気づいた。
───
息を吸って、吐く。
───
その呼吸が、自分を還してくれる。
───
降りつづけた雨は、静かに海へ。
自分も、静かに自分へ。
静寂の余韻
Return
還ることは、 失ったものを、 取り戻すこと。
それは、 呼吸の中にある。
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