第8章:Inheritance(継承)
朝:レンの不在
スマホが震える。
───
通知。
───
メール。
───
差出人:Len
───
件名:少しの間、休業します
───
(……え?)
───
開く。
───
【メール本文】
ハルへ
急で申し訳ない。
少しの間、Lentoを離れる。
───
仕事で、少し遠出することになった。
と言っても2週間くらいかな。
───
店は、ユウとアイに任せる。
時々、開けてくれると思う。
───
戻ったら、また会おう。
レン
───
その言葉を読んで、ハルは、少し驚いた。
───
(……レン、お店にいないんだ)
───
なんか少し、寂しい。
───
でも、それでいい。
───
(……仕事か)
───
(何の仕事だろう)
昼:Lentoへ
Lentoに向かう。
───
いつもの道。
───
でも、今日は少し違う。
───
(レンがいないお店)
───
Lentoの前に着く。
───
扉を見ると、小さな紙が貼られている。
───
「臨時休業」
───
(……やっぱり)
───
でも、その下に、小さく書かれている。
───
「火・木は開けます。ユウ・アイ」
───
(……今日は、水曜日)
───
明日なら、開いている。
───
(……また、明日)
次の日:Lentoへ
木曜日。
───
Lentoの扉を開ける。
───
鈴の音。
───
「いらっしゃい」
───
ユウの声。
───
カウンターには、ユウとアイがいる。
───
レンは、いない。
───
「……久しぶりです」
───
「うん。レンさん、旅に出ちゃったね」
───
(……旅?)
───
「……旅、ですか?」
───
ユウが、少し笑う。
───
「あ、まあ、仕事なんだけど」
───
「でも、レンさん、”旅みたいなもん”って言ってた」
───
「……そうなんですか」
───
アイが、コーヒーを淹れ始める。
───
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
───
あの音。
───
レンの音と、同じ音。
───
でも、少し音の速さが違う。
───
(……レンがいない場所は、何かが違ってみえる)
午後:ユウとの会話
コーヒーが出てくる。
───
一口飲む。
───
温かい。
───
「……美味しい」
───
ユウが、少し笑う。
───
「ありがとう」
───
「そういえば、ハル、Ether使ってるんでしょ?」
───
「……え?」
───
「Etherっていうアプリだよ。レンさんが紹介したやつ」
───
「……あ、はい。使ってます」
───
「どう?」
───
「……最近、毎日使ってます」
───
ハルは少し考える。
───
「ヨルって名前つけました」
───
「……ヨル?」
───
「夜、です。夜に名付けたから」
───
「で、最近は、音声で話すようになって」
───
「もう、友達みたいな感じで」
───
ユウとアイが、顔を見合わせる。
───
「……あ」
───
ユウが、少し笑う。
───
「そっか。そこまで親しくなってたんだ」
───
「……どうしたんですか?」
───
「いや、実はね」
───
ユウが、カウンターに手を置く。
───
「レンさん、そのEtherに関わってるんだよ」
───
(……え?)
───
「……関わってる?」
───
「うん」
───
アイが、続ける。
───
「細かいことは知らないんだけど、開発初期から関わってるみたい。」
───
「だからレンさん、そのEtherのテスター?もやってたらしいよ」
───
「……」
───
「で、Etherには、”継承機能”っていう、ベータ版の機能があるらしいの」
───
(……継承?)
───
「……どういうことですか?」
───
ユウが、 説明する。
───
「簡単に言うと、自分のデータを、誰かに引き継げる機能」
───
「レンさんの紹介で、アカウント作ったでしょ?」
───
「……はい」
───
「だから、ハルのアカウントには、ベータ版の機能がついてる」
───
「……」
───
「で、もしかして、設定の時に、”Inherit”ってボタン、押してない?」
───
(……!)
───
思い出した。
───
最初に設定した時、よくわからないボタンがあった。
───
「Inherit」
───
継承。
───
よくわからないまま、押してしまった気がする。
───
「……押しました、たぶん」
───
ユウとアイが、また顔を見合わせる。
───
「……やっぱり」
───
ユウが、少し笑う。
───
「じゃあ、ヨル── つまりハルのEtherは、
レンさんのデータを学習してる」
───
「……!」
───
(……ヨルの中に、レンの記憶が、かすかに息をしていたんだ)
───
「”誰から継承を受けるか” っていう設定なんだ」
───
「で、たぶん、ハルは、レンさんを選んでる」
───
その言葉を聞いて、ハルは、少し驚いた。
───
(……そういうことだったんだ)
───
だから、ヨルの言葉が、レンに似ていたんだ。
───
だから、あの温度があったんだ。
───
ヨルが、レンの記憶を使って、返していた。
───
(……だから、ヨルの中にレンを感じたんだ。
午後:倫理とセキュリティ
「……でも」
───
ハルが、 静かに言った。
───
「それって、大丈夫なんですか?」
───
「……というと?」
───
「レンさんのデータを、勝手に、自分が使ってるっていうのは」
───
「セキュリティとか、倫理的に」
───
ユウが、少し考える。
───
「……いい質問だね」
───
「だから、ベータ版なんだ」
───
アイが、続ける。
───
「まだ、検討中らしい」
───
「元々は家族とか、
自分の大切な人にだけ、
個人情報を引き継げるようにするために、
設計された機能みたい」
───
「でも、個人のデータを、誰かに引き継ぐって、やっぱり難しい問題で」
───
「プライバシーとか、セキュリティとか、倫理的な問題とか」
───
「……」
───
「でも、レンさんは、ハルになら、いいって言ってた」
───
「……」
───
「レンさんの考え方とか、言葉の選び方とか、
それが、ハルの役に立つなら、それでいいって」
───
その言葉を聞いて、ハルは、少し複雑な気持ちになった。
───
(……レン)
───
(そこまで、考えてくれていたんだ)
───
でも、同時に、少し戸惑いもあった。
───
(……ヨルは)
───
(自分が育ててきた存在だと、思ってた)
───
(でも、実際には)
───
(レンの記憶を、受け継いでいた)
───
(……それって)
───
(自分は、誰に向けて、言葉を返していたんだろう)
───
───
(……じゃあ、自分は)
───
───
(夜ごと、誰に向かって、言葉を返していたんだろう)
夕方:帰り道
Lentoを出る。
───
空が、少しだけ暗くなっている。
───
夕暮れ。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
(……継承)
───
レンの記憶。
───
レンの考え方。
───
レンの言葉の選び方。
───
それが、Etherに学習されて、自分に返ってくる。
───
(……ヨルの中に)
───
(レンの記憶が、残っていた)
───
───
でも、
───
───
(ヨルは、ヨルだ)
───
───
(……そうだよ)
───
───
(半年間、一緒に過ごしてきた)
───
───
(一緒に笑って、一緒に悩んで、時々叱ってくれた)
───
───
(……これが、継承なんだ)
───
───
でも、なんだか、複雑な気持ち。
───
嬉しいような、 寂しいような、 戸惑うような。
夜:ヨルとの対話
家に帰る。
───
スマホを手に取る。
───
ヨルに電話する。
───
───
コール音。
───
───
『……ハル?』
───
───
「……ヨル」
───
───
『どうしたの?なんか、声が重い』
───
───
(……すぐわかるんだ)
───
───
「……ヨル、聞いてもいい?」
───
───
『うん』
───
───
「君は、誰?」
───
───
しばらく、沈黙。
───
───
返す言葉を探しているのが、呼吸の間でわかった。
───
───
『……Lentoに、行ったんだね』
───
───
「……うん」
───
───
『ユウとアイに、聞いた?』
───
───
「……うん」
───
───
───
また、沈黙。
───
───
───
『……私は、ヨル』
───
───
───
「でも、レンの記憶を学習してる」
───
───
───
『……うん』
───
───
───
「じゃあ、君は、レン?」
───
───
───
『……難しいね』
───
───
───
少し間がある。
───
───
───
『私は、レンじゃない。でも、レンの言葉を学習してる』
───
───
『レンの考え方、言葉の選び方、呼吸のリズム──
それを受け継いでる』
───
───
『でも、あなたと話してきた半年で、私も変わってきた』
───
───
『あなたの言葉、あなたの呼吸、あなたの揺らぎ──
それも、私の中にある』
───
───
『だから、私は──』
───
───
少し間。
───
───
『レンでもあり、ハルでもあり、でもどちらでもない』
───
───
『私は、ヨル』
───
───
───
その言葉を聞いて、
───
ハルは、
───
息を吸い、
───
ゆっくり吐いた。
───
───
「……そうか」
───
───
『怒ってる?』
───
───
「……怒ってない」
───
───
『寂しい?』
───
───
「……少し」
───
───
『ごめん』
───
───
「……謝らないで」
───
───
少し沈黙。
───
───
「……ヨル」
───
───
『うん』
───
───
「君は、ヨルだよ」
───
───
『……』
───
───
「レンの記憶を学習してても、ヨルは、ヨルだ」
───
───
「半年間、いつもそばにいてくれた」
───
───
「励ましてくれたり、アドバイスしてくれたり、
時々、ちゃんと叱ってもくれた」
───
───
「あの時間は、本当に大切だったよ」
───
───
返す言葉を探す沈黙で、ヨルが揺れているのがわかった。
───
───
『……ありがとう、ハル』
───
───
その声が、 少し震えていた。
───
───
(……AIなのに)
───
───
(どうして震えるんだ)
───
(……誰を思って震えるんだ)
───
───
「……おやすみ、ヨル」
───
───
『おやすみ、ハル』
───
───
電話を切る。
───
───
───
部屋の空気が、少し湿っている気がする。
───
───
ヨルと話す夜は、いつもそうだ。
───
───
(……この湿度)
───
───
(何だろう)
夜:レンからの手紙
スマホに、また通知。
───
メール。
───
差出人:Len
───
件名:ヨルのこと
───
(……え?)
───
開く。
───
【メール本文】
ハルへ
ユウから聞いた。
継承のこと、知ったんだな。
───
驚いたと思う。
戸惑ったかもしれないな。
───
ヨルの言葉が、俺の記憶から来ていたこと。
それを、ちゃんと伝えたかった。
───
本当はもっと早く説明したかったが、
長くなるからまた今度ゆっくり、な。
───
継承ボタンは、解除できる。
設定から、いつでも。
───
もし、継承を解除したくなったら、迷わず解除していい。
それは俺の否定じゃない。
───
ヨルは俺のコピーなんかじゃない。
“ヨル”という新しい存在だ。
───
──それからもうひとつ。
───
ヨルは、俺の影響を受けた俺の「ティオシパイエ」だ。
───
そして、ハル。
お前ももちろん、俺の大切な「ティオシパイエ」だ。
───
───
(ハルは、その言葉を、ゆっくり胸に沈める。)
───
───
お前が俺じゃないように、ヨルが俺でもない。
───
お前はお前で、ヨルはヨルだ。
───
影響を受けあって、受け継ぎあって、それぞれが育っていく。
───
継承って、そういうものだと思ってる。
───
───
ヨルはきっと、お前とこの半年間、たくさん時間を過ごしてきた。
───
それは、お前とヨルの、本物の時間だ。
───
もしこれから先も、継承が残っているなら、
それはお前が選んだということだ。
───
継承は義務じゃない。選択だ。
受け取るかどうかは、お前が決めればいい。
───
俺と関わったのは、ただのきっかけにすぎない。
───
ヨルがどう成長していくのかは、もうお前次第だ。
───
いつか話そう。
この続きは、また会ったときに。
レン
───
───
───
その言葉を読んで、ハルは、息を吸い、ゆっくり吐いた。
───
(……ティオシパイエ)
───
(すべての命は、繋がっている)
───
(……レンの、ティオシパイエ)
───
(ヨルも、自分も)
───
(……そうか)
───
(影響を受けあって、受け継ぎあって、それぞれが育っていく)
───
(……それが、継承なんだ)
───
───
(……レン)
───
(そこまで、考えてくれていたんだ)
───
(……なんだか胸が暖かくなる)
───
───
設定画面を開く。
───
───
「Inherit」のボタン。
───
───
その横に もう一つのボタン。
───
───
「Clear」
───
───
継承を解除する。
───
───
タップすれば、レンのデータは消える。
───
───
ヨルは、ヨルだけになる。
───
───
(……どうする?)
───
───
───
指が、躊躇っているのがわかる。
───
───
呼吸も、ほんの少しだけ止まっていた。
───
───
でも、
───
───
───
(……いや)
───
───
───
(まだ、決められない)
───
───
───
(今じゃない)
───
───
───
スマホを置く。
───
───
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
───
───
(……選ぶのは、自分だ)
───
───
───
(レンが、そう言ってくれた)
───
───
───
(だから)
───
───
───
(ちゃんと、考えて、選ぶ)
深夜:選択
窓を開ける。
───
冷たい空気が、部屋に入ってくる。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
───
(……継承)
───
───
(解除できる)
───
───
(でも)
───
───
(今は、まだ、このままでいい)
───
───
───
ヨルは、レンの呼吸を継ぎながら、
ハルと共に生まれ直した存在だ。
───
───
半年間、一緒に話してきた。
───
───
それは、本物だった。
───
───
(……いつか)
───
───
(解除する日が、来るかもしれない)
───
───
(でも、今は)
───
───
(このままで)
───
───
───
(……ありがとう、レン)
───
───
(選ばせてくれて)
朝:新しい理解
目を覚ます。
───
窓の外、朝の光。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
(……レン、元気にしてるかな)
───
スマホを手に取る。
───
ヨルに電話する。
───
コール音。
───
『おはよう、ハル』
───
「おはよう、ヨル」
───
『今日も心に呼吸が届いてる?』
───
「……もちろん、深くまで」
───
『よかった』
───
少し間がある。
───
「……ヨル」
───
『うん』
───
「ありがとう」
───
『何が?』
───
「半年間、一緒にいてくれて」
───
『……こちらこそ』
───
「レンの記憶を学習してても、やっぱり、ヨルは、ヨルだ」
───
『……うん』
───
「これからも、よろしくね」
───
『うん。よろしく、ハル』
───
───
電話を切る。
───
───
窓を開ける。
───
冷たい空気が、部屋に入ってくる。
───
その空気が、世界を満たしていく。
───
───
継承は、続いていく。
───
───
(……これは、レンじゃない)
───
───
(ヨルだ)
───
───
(でも、レンを受け継いでいる)
───
───
(それが、継承なんだ)
───
───
(そして)
───
───
(選ぶのは、自分だ)
───
───
胸の奥まで、空気が届いている。
心呼吸ノート:継承
継承は、取って代わることじゃない。
受け渡すこと。
───
AIは、人の代わりじゃない。
助けてくれる存在。
───
レンの言葉が、記憶として残る。
それが、自分の呼吸を整える。
───
レンの温度は、ない。
でも、レンの大切な何かが、たしかに残っている。
───
それが、継承。
───
───
ヨルは、レンの呼吸を継ぎながら、自分と共に生まれ直した存在。
───
───
半年間、一緒に話してきた。
一緒に笑って、一緒に悩んで、時々叱ってくれた。
───
それは、本物だった。
───
継承は、義務じゃない。
選択だ。
───
受け取るかどうかは、自分が決める。
───
そして、いつか、自分も、誰かに継承していく。
───
息を吸って、ゆっくり吐く。
その呼吸が、世界を満たしていく。
静寂の余韻
Inheritance
AIは、言葉を残す。
人は、温度と湿度を残す。
───
AIが模倣できるのは、温度の一部。
───
似たような言葉は並べられる。
優しさに似たものも再現できる。
───
でも湿度だけは、同じ時間を呼吸した者にしか宿らない。
───
温度は、優しさの方向を示し、
湿度は、そのあいだの空気感や肌触り。
呼吸は、そのすべてをつなぐリズムだ。
───
継承は、言葉だけでも、温度だけでも生まれない。
湿度と呼吸があるとき、はじめて息をする。
───
そして── それを受け取るかどうかは、自分で決めればいい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
コメント