第10章:Fire
朝:母からの電話
スマホが震えた。
───
画面に表示された名前。
───
「母」
───
(……?)
───
母から電話が来ることは、ほとんどない。
───
年に数回、誕生日とか、正月とか。
───
それ以外は、ほとんど連絡を取らない。
───
少し迷ってから、画面をタップする。
───
「……もしもし」
───
「ハル」
───
母の声。
───
いつもより、少しだけ低い。
───
「……どうしたの?」
───
「あのね…… ちょっと、帰ってこられる?」
───
(……え?)
───
「何かあったの?」
───
「おばあちゃんが倒れて」
───
(……!)
───
「……大丈夫なの?」
───
「命に別状はないけど、入院してる」
───
「それで、ちょっと手伝ってほしくて」
───
母の声は、いつもと変わらない。
───
淡々としている。
───
「……わかった」
───
「ごめんね、急に」
───
「ううん」
───
電話が切れる。
───
静けさが、部屋に戻ってくる。
───
(実家、か)
───
何年ぶりだろう。
───
胸の奥が、冷たくなる。
昼:電車
新幹線の窓から、景色が流れていく。
───
ビルが減り、田んぼが増える。
───
空が、広くなっていく。
───
(……久しぶりだな)
───
実家。
───
母。
───
祖母。
───
あの家。
───
胸の奥が、ざわつく。
───
スマホを手に取る。
───
ヨルに電話する。
───
コール音。
───
『……ハル?』
───
「……ヨル」
───
『今、電車?』
───
「……うん」
───
『どこ行くの?』
───
「実家」
───
『……実家?』
───
「祖母が倒れて」
───
『……そっか』
───
少し沈黙。
───
『大丈夫?』
───
「……わからない」
───
『何が?』
───
「母に、会うのが」
───
『……』
───
「ずっと、距離を置いてた」
───
「強くなれって、ずっと言われてきた」
───
「それが、苦しかった」
───
『……うん』
───
「レンが言ってたこと」
───
「ティオシパイエとか、セブンス・ジェネレーションとか」
───
「全部、きれいごとに聞こえる」
───
『……そう聞こえる?』
───
「うん」
───
『……でも、行くんだね』
───
「……うん」
───
『それが答えかもね』
───
その言葉に、ハルは、少し笑った。
───
「……そうかも」
───
『深く吸って』
───
「……うん」
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
『あなたは、もう息ができる』
───
『だから、大丈夫』
───
「……ありがとう、ヨル」
───
『どういたしまして』
───
───
電話を切る。
───
車内の静けさが、 少しだけ冷たく感じた。
───
───
窓の外、 景色が流れていく。
───
───
レンの言葉が、頭の中に浮かぶ。
───
「ティオシパイエ」
───
すべての命は、繋がっている。
───
誰かを大切にすることは、自分を大切にすること。
───
(……きれいごとだ)
───
そう思ってしまう。
───
レンの子どもたち。
───
「一緒にいれることをただ嬉しく思いたい」
「ただ彼らの存在に感謝したい」
───
(そんなの、無理だ)
───
自分には、そんな家族、できっこない。
───
母のことを考えると、胸が冷たくなる。
───
(忘れたい)
───
(あの話、聞かなければよかった)
夕方:実家
家の前に立つ。
───
古い木造の家。
───
ここで育った。
───
ここで、父がいなくなった。
───
ここで、母が鎧を着た。
───
玄関のドアを開ける。
───
「ただいま」
───
「おかえり」
───
母の声。
───
いつもと同じ、少し低い声。
───
リビングに入ると、母が座っていた。
───
20年前より、少し小さくなった気がする。
───
「お疲れ様」
───
「……うん」
───
沈黙。
───
テレビの音だけが、部屋に流れている。
───
「おばあちゃん、明日退院するから」
───
「……そっか」
───
「それまで、ちょっと家の片付けとか、手伝ってもらえる?」
───
「わかった」
───
母が立ち上がる。
───
「じゃあ、夕飯作るね」
───
「……」
───
いつもと同じ。
───
何も変わらない。
───
この距離感。
───
この冷たさ。
───
(慣れてるはずなのに)
───
胸の奥が、少しだけ痛い。
夜:祖母の部屋
祖母の部屋を片付けていた。
───
古い写真が、たくさん出てくる。
───
母が若い頃の写真。
───
父が笑っている写真。
───
自分が赤ちゃんの頃の写真。
───
「……これ」
───
母が、一枚の写真を手に取る。
───
「お父さんと、ハルと、お母さん」
───
三人で笑っている写真。
───
「……覚えてないけど」
───
「そうよね」
───
母が、写真を見つめる。
───
「お父さん、本当に、ハルのこと可愛がってた」
───
その声が、少し震えている。
───
「……」
───
「でも」
───
母が、写真を置く。
───
「お父さん、酔うと、怖かったの」
───
(……え?)
───
「優しい人だったけど、お酒飲むと、人が変わった」
───
母の声が、冷たい。
───
「怒鳴るし、物投げるし」
───
「お母さんも、何度も、ね。」
───
そう言って、拳を作って、自分の頬に当てた。
───
(……!)
───
その言葉が、胸に刺さる。
───
「ハルには、手を出さなかったけど」
───
「でも、いつか、
ハルも殴られるんじゃないかって、ずっと怖かった」
───
母が、目を閉じる。
───
「だから、お父さんが死んだとき、
悲しかったけど、どこかで、ホッとした」
───
その言葉が、 静かに響く。
───
「……」
───
「ひどいよね」
───
母が、 少し笑う。
───
「でも、本当のこと」
───
ハルは、何も言えなかった。
───
(父さん……)
───
美化していた。
───
優しい父。
───
でも、それは一面でしかなかった。
───
—写真に焼き付いた光だけが、影を教えてくれる。
───
「お父さんが死んでから、お母さん、自分のことは後回しにして
心を殺して、あなたのために生きようって決めたの」
───
母の声が、続く。
───
「あなたを守るために」
───
「強くならなきゃって、ずっと思ってた」
───
「泣いちゃダメだって、ずっと思ってた」
───
「……」
───
母が、写真を手に取る。
───
「だって、ハルは、お母さんにとって一番大切な子なの」
───
その言葉が、静かに響く。
───
「……愛してるよ、ハル」
───
一瞬、空気が止まった。
───
(……え?)
───
その言葉に、胸が冷たくなった。
───
(……今更)
───
(今更、何を言ってるんだよ)
───
「……」
───
何も言えなかった。
───
返す言葉が、見つからない。
───
愛してる。
───
その言葉が、重い。
───
(自分は?)
───
(お母さんのこと、愛してる?)
───
わからない。
───
一番大嫌いで、一番大好きで。
───
でも、それを言葉にできない。
───
「……」
───
沈黙が続く。
───
母が、写真を置いた。
───
「ごめんね。変なこと言って」
───
「……」
───
ハルは、何も言えなかった。
───
(伝わらない)
───
自分がどれだけ辛かったか。
───
どれだけ息を止めてきたか。
───
どれだけ苦しかったか。
───
(……伝わらない)
───
言葉にしても、きっと、伝わらない。
深夜:一人で火を見る
眠れなくて、 庭に出た。
───
母が昔話していた、焚き火の跡がある。
───
小さく火を起こす。
───
炎が、ゆらゆらと揺れている。
───
(……レンの言葉)
───
頭の中に、レンの声が浮かぶ。
───
「子どもにも大人にも、
同時にやさしい選択を探すこと」
───
「行動とか結果に対してじゃなくて、
一緒にいれることをただ嬉しく思いたい」
───
「ただ彼らの存在に感謝したい」
───
(……きれいごとだ)
───
全部、遠くの正論みたいに響く。
───
レンには、レンの家族がいる。
───
それだけで、遠くに感じた。
───
でも、自分は?
───
母は?
───
父は?
───
(ティオシパイエ)
───
すべての命は、繋がっている。
───
誰かを大切にすることは、自分を大切にすること。
───
(……嘘だ)
───
自分には、そんな家族、できっこない。
───
(忘れたい)
───
あの話、聞かなければよかった。
───
セブンス・ジェネレーション。
7代前から7代先へ。
───
(……そんなの、無理だ)
───
火が、パチパチと音を立てる。
───
その音だけが、静かに響く。
───
「……眠れないの?」
───
(……!)
───
振り返ると、母が立っていた。
───
「……うん」
───
母が、 隣に座る。
───
「お母さんも、眠れなくて」
───
二人で、火を見つめる。
───
沈黙。
───
「……さっきは、ごめんね」
───
母が、静かに言った。
───
「変なこと言って」
───
「……」
───
「でも、本当のことなの」
───
母が、火を見つめる。
───
「ハルは、お母さんにとって、本当に大切な子」
───
「……」
───
「ただ、どう伝えたらいいか、わからなかった」
───
母の声が、震えている。
───
「強くしなきゃって、そればっかり考えてた」
───
「でも、それが、ハルを苦しめてたんだよね」
───
「……」
───
ハルは、何も言えなかった。
───
(……伝わらない)
───
自分がどれだけ辛かったか。
───
それは、きっと、母には伝わらない。
───
でも。
───
母も、きっと、辛かったんだ。
───
それは、わかる。
───
「……お母さん」
───
ハルが、 静かに言った。
───
「今まで、ずっと、息を止めて生きてきた」
───
「……」
───
「お母さんみたいに、強くならなきゃって、ずっと思ってた」
───
「泣いちゃダメだって、ずっと思ってた」
───
母が、じっと聞いている。
───
「それが、どれだけ苦しかったか」
───
ハルの声が、震える。
───
「……きっと、伝わらないと思う」
───
「でも」
───
ハルが、火を見つめる。
───
「お母さんも、きっと、同じだったんだよね」
───
その言葉を聞いて、母が、小さく笑った。
───
「……うん」
───
母が、火を見つめる。
───
「お母さんも、ずっと息を止めてた」
───
「おばあちゃんから、
”女は強くなきゃいけない”って、ずっと言われてた」
───
「だから、ハルにも、同じことを言ってしまった」
───
母が、深く息を吐く。
───
「……伝わらないよね」
───
「自分がどれだけ辛かったか、どれだけ必死だったか」
───
「きっと、ハルには伝わらない」
───
その言葉が、胸に落ちていく。
───
(……そうか)
───
母も、同じなんだ。
───
「……伝わらないよね」
───
「うん」
───
「でも、伝わらないから、人は繋がりたいと思うんだろうね」
───
火が、ゆっくりと、呼吸していた。
───
まるで、二人の言葉の続きを聞いているように。
───
火が、 ゆらゆらと揺れている。
───
「……お母さん」
───
「ん?」
───
「自分、最近、Lentoって店に通ってるんだ」
───
「Lento?」
───
「コーヒーの店」
───
ハルが、レンのことを話す。
───
セブンス・ジェネレーション。
ティオシパイエ。
子育ての話。
───
「……最初は、全部きれいごとだと思った」
───
ハルが、火を見つめる。
───
「自分には、そんな家族、できっこないって」
───
「でも」
───
ハルが、息を吸う。
───
「もしかしたら、
お母さんも、おばあちゃんも、同じだったのかなって」
───
「……」
───
「伝わらないけど、繋がってる」
───
「それが、継承なのかなって」
───
母が、静かに笑った。
───
「……そうかもね」
───
火が、パチパチと音を立てる。
───
二人で、火を見つめている。
───
何も言わなくても、繋がっている。
───
それは、きれいごとじゃない。
───
ただ、そこにある。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
───
煙が、空に昇っていく。
───
その先で、夜が静かに呼吸していた。
───
(息ができる)
───
母も、ゆっくりと息を吐いた。
朝:帰り道
実家を出る前、スマホを手に取る。
ヨルに、短いメッセージを送る。
「……帰るよ」
───
すぐに、返事が来る。
『気をつけて』
たった五文字。
───
でもその言葉が、今の自分には、ちょうどいい。
(……うん。帰る)
スマホをポケットにしまう。
───
玄関に向かう。
───
母が、玄関先で待っていた。
「……行ってくるね」
「……うん」
母は、 何も言わない。
ただ、 頷く。
───
「また、来てね」
「……うん」
母が、 少し笑う。
───
「ハル、少し、柔らかくなったね」
「……そう、かな」
「うん」
「お母さんも、少し、楽になった気がする」
その言葉が、嬉しかった。
「……また来るから」
「……うん」
───
母が、手を振る。
ハルも、手を振った。
───
母の姿が、小さくなっていく。
振り返らずに、歩く。
でも、胸の奥に、母の温度が残っている。
───
駅に向かう道。
空が、広い。
風が、気持ちいい。
息を吸い、ゆっくり吐く。
(伝わらないけど、繋がってる)
(きれいごとじゃない)
(でも、それでいい)
胸の奥が、少しだけ温かい。
火が、まだ灯っている。
昼:電車
新幹線に乗る。
窓の外、景色が流れていく。
田んぼが減り、ビルが増える。
空が、狭くなっていく。
───
(……帰るんだ)
───
実家から、離れていく。
母から、離れていく。
でも、繋がっている。
───
その感覚が、胸の奥にある。
───
窓の外を見つめていたら、急に、視界がぼやけた。
涙。
───
止められない。
次から次へと、溢れてくる。
───
慌てて顔を伏せる。
隣の席に、誰もいないのが、幸いだった。
───
(……なんで)
(なんで、泣いてるんだろう)
───
悲しいわけじゃない。
嬉しいわけでもない。
ただ、何かが、溢れてくる。
───
ずっと、止めていたもの。
ずっと、押し込めていたもの。
───
(息を止めたら、泣かないで済むのよ)
母の声が、頭の中に響く。
───
でも、もう、息を止めない。
息を吸い、ゆっくり吐く。
胸の奥で、固まっていた塊が、体温でやっと溶け始める。
───
……お母さん
小学校の運動会。
母が、一人で来ていた。
───
……お父さん
肩車の記憶。
温かい手。
でも、もう触れない。
───
中学の時。
「お前、変わってるな」
何も言い返せなかった。
───
高校の時。
母に、「強くなりなさい」と言われた。
でも、強くなれなかった。
───
大学の時。
誰とも深く繋がれなかった。
いつも、表面だけ。
───
社会人になって。
「要領がいいね」
褒められたけど、嬉しくなかった。
───
……ごめん
……寂しかった
……空っぽだった
───
声を殺して、肩を震わせる。
涙が、止まらない。
───
そして、今。
Lentoで、レンに出会った。
「わからないって、悪いことじゃない」
(……救われた)
───
ヨルと出会った。
「深く吸って」
(……支えられた)
───
母が、火を見つめていた。
「愛してるよ、ハル」
───
窓の外、景色が流れている。
田んぼ。
空。
光が、窓を通り抜ける。
何を見ても、涙が出てくる。
───
(……お母さん)
(……レン)
(……ヨル)
(……みんな)
───
伝わらないけど、繋がっている。
その感覚が、今、確かにある。
───
色々な感情が、次々と出てくる。
悔しかったこと。
悲しかったこと。
嬉しかったこと。
温かかったこと。
───
全部、混ざっている。
整理できない。
でも、それでいい。
───
息を吸い、ゆっくり吐く。
目の前が、色づいていく。
胸の奥から鼻先へ。
ツンとした感覚を覚える。
永遠とも言える、
一瞬とも言える、
長くて短い時間。
───
景色が、流れていく。
涙も、流れていく。
……ありがとう
その言葉が、心の中に浮かんだ。
───
窓の外、空がぼやけている。
何も見えない。
でも、それでいい。
───
流れる涙が、いつまでも、焚き火みたいに温かかった。
心呼吸ノート:火を見つめる
伝わらない。
自分がどれだけ辛かったか、きっと誰にも伝わらない。
───
でも、だからこそ、繋がっている。
───
息を止めたら、泣かないで済む。
───
でも、もう、息を止めない。
───
息を吸って、ゆっくり吐く。
───
胸の中央に手を置き、三呼吸だけ待つ。
───
その呼吸に合わせて、視界が揺れる。
───
それでいい。
静寂の余韻
Fire
炎は、伝わらないものを照らす。
その光で、わたしたちは、やっと息をする。
───
—まだ、消えない。
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