序章:静かな呼吸のあとで
眠れない夜だった。
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スマホの画面が、 顔を照らしている。
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タイムラインの光が、 夜の静けさを分解していく。
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みんな、よく喋る。
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自分だけ、何も言えない。
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指を止める。 画面を閉じる。
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目を閉じても、 まぶたの裏に光が残っている。
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青白い残光が、 呼吸のリズムを乱す。
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明日も同じように朝が来て、
同じように電車に乗って、
同じように仕事をして、
同じように笑う。
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わかっている。
それでも、止まらない。
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「いま、ここにいる自分」
それを確かめるために、息を吸う。
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深く吸おうとして、喉が詰まる。
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吐く。
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吐ききれない空気が、胸に残る。
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(息が浅い)
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そう気づいた瞬間、 小さく笑ってしまう。
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笑った顔も、 もう見慣れた仮面のようだった。
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画面の隅に、 アプリの通知。
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英語で書かれた、
相変わらず読めない単語。
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「Ether」 ──あの人に教えてもらった、
“未来の自分を作れる”アプリ。
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あの人、
……元気にしてるかな。
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画面の光を見つめたまま、
指を動かす気にはなれなかった。
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もう、寝なきゃ。
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胸の奥のざらつきが、
少しだけ動いた気がした。
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(明日も、ちゃんと起きられるだろうか)
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そんなことを考えながら、
意識がゆっくりと沈んでいった。
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カーテンの外で、
夜が音を立てずに、
朝へと変わっていく。
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その境目で、 夢と現実が混ざり合う。
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雨が降っていた。
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誰かの肩の上に、 乗っている。
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いつもより、 ずっと高い場所。
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でも、 怖くない。
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白い光で、 顔は見えない。
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でも、 その手が、
しっかりと自分を支えていた。
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そんな記憶も、もうほとんどない。
あるのは、一瞬の写真のような映像だけ。
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もし写真を見返さなければ、
その人の声の高さも、
体温も思い出せなかったと思う。
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父は、ある日いなくなった。
事故だった。
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母は、それ以来、
鎧を着て生きるようになった。
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朝は早く、言葉は少なく、
まるで心を守るために、
息を詰めているようだった。
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(強くならなきゃ)
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それが、母の口癖だった。
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本当は、 誰よりも優しい人だったのに。
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その優しさを隠すように、
誰にも負けない強さで、
自分を守っていた。
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子どもの頃、
母が車の中で泣いていたことを、
近所の人に聞かされたことがある。
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自分の前では、
決して泣かなかったのに。
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そのとき初めて思った。
「強さ」って、泣かないことじゃないんだと。
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でもその気づきも、
大人になるにつれて
どこかに置き忘れてきた気がする。
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(出る杭は打たれる)
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田舎の学校では、
少しでも違うことをすると、
すぐに浮いた。
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「お前、変わってるな」
「空気読めよ」
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そんな言葉を浴びながら、
次第に”考えるより、
黙る”ことを覚えた。
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雨の中で光るアスファルト。
放課後の匂い。
濡れた靴の感触。
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そのすべてが、
今ではもう遠い場所の記憶だ。
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夢の中で、母の声がした。
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「息を止めたら、泣かないで済むのよ」
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その声が遠ざかる。
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代わりに、 雨の音が近づいてくる。
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どちらも、 本当のことのようで、
どちらも、 夢のようだった。
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目を開ける。
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灰色の光。
カーテンの隙間から、淡い朝。
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喉が痛い。
息が浅い。
───
夢の内容は、
もうほとんど覚えていない。
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ただ、胸の奥に、
何かの”言葉の残響”だけが残っている。
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(なんだったっけ……)
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スマホの通知音。
光が点滅する。
───
(また、今日も)
───
深呼吸をしてみる。
そのまま、布団から体を起こす。
───
外の世界が、
今日も音を立てずに動き始めていた。
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……
…
静寂の余韻
息を止めれば、 痛みは消える。
でも、 生きることも止まる。
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