第1章:Between Words(言葉の境界線)
朝:目覚めと通知
目覚めた。
また胸が重い。
───
カーテンの隙間から、灰色の光。
───
今日も曇りか。
───
深く吸おうとして、 喉が詰まる。
───
(また、今日も)
───
スマホの画面。
───
通知が10件。
ニュース、広告、メッセージ。
───
「○○が炎上」
「今すぐチェック!」
「あなたへのおすすめ」
───
全部、どうでもいい。
───
画面を閉じる。
───
呼吸が、少し浅くなる。
朝:通勤電車の騒音
改札を抜ける。
ピッ、ピッ、ピッ。
カードをかざす音が、連続して響く。
───
ホームへ降りる階段。
蛍光灯の白い光が、目に刺さる。
───
人、人、人。
───
コーヒーの匂い。
香水。
タバコ。
コンビニの惣菜。
───
いろんな匂いがぶつかって、
空気がざらついている。
───
電車がホームに滑り込む音。
耳の奥で金属が軋む。
───
一瞬、体が硬くなる。
───
後ろから、声が聞こえる。
───
「マジ昨日のあれ見た?」
「見た見た! 超ウケるんだけど」
「あれヤバいよね、マジで」
───
大学生だろうか。
クソでかい声。
───
周りに誰もいないかのように、
笑いながら話している。
───
もう慣れた光景。
もう慣れた音量。
───
昔なら、うるさいと思った。
今は、思わないようにしている。
───
いや、
──そうするしか方法を知らない。
───
電車が来る。
ドアが開く。
人の波に押されて、中に入る。
───
ドアが閉まる音が、 鼓膜に刺さった。
───
揺れ始める。
吊り革の金具がわずかに鳴る。
───
となりの人の肩が触れる。
体温が、服越しに伝わってくる。
───
重い。
───
揺れよりも、
人の呼吸と汗の匂いの方が気になる。
───
みんな、スマホを見ている。
無表情な光が、顔を照らしている。
───
(誰も、ここにいないみたいだ)
───
車内アナウンス。
「次は──」
その声が遠くで揺れている。
───
目を閉じる。
───
暗闇の中のほうが、 少しだけ静かだ。
───
その静けさも、 すぐに押しつぶされる。
───
誰かの咳。
靴音。
電子音。
笑い声。
───
(全部、うるさい)
───
窓の外、流れる景色。
───
同じビル。 同じ看板。
同じグレーの空。
───
今日も、演じる。
今日も、言葉を選ぶ。
今日も、疲れる。
───
でも、それしかできない。
午前:自分自身の自動化
ディスプレイの光が、 まぶしい。
───
キーボードを叩く音。
コピー機の音。
誰かの笑い声。
───
メールが次々と届く。
───
「例の件、進捗どうですか?」
「資料確認お願いします」
「15時MTG、よろしくです」
───
返信する。
短く、的確に。
───
「承知しました」
「確認します」
「参加します」
───
自動で指が動く。
顔も、声も、自動で動く。
───
「ハルさん、おはよーございます!」
───
アオイが通りかかる。
───
「おはよ」
───
「昨日の資料、 すごくわかりやすかったです。」
「ほんとに助かりましたー」
───
「そっか、よかった」
───
反射的に笑顔をつくる。
───
相手の目を見ているのに、
視界の奥はどこか空っぽ。
声だけが、口元の外側を通り過ぎていく。
───
「仕事できるよね」
───
そう言われることがある。
───
褒め言葉だとわかっている。
でも、心には何も残らない。
───
(今日も、上手くやれた)
───
そう思うたびに、 どこかが削れていく。
───
Slackの通知。
───
「来週のプレゼン、ハルに任せたいんだけど」
───
加納からだ。
───
「承知しました」
───
指が勝手に動く。
心は、どこにもいない。
午前:会議室の圧力
会議室の白い壁。
蛍光灯の低音が、耳に残る。
───
「それでは、来週のクライアント向け提案について」
───
スライドが切り替わる。
数字が並ぶ。
グラフが上がる。
───
「ハル、今回のプレゼンは君に任せる」
───
周りの視線が集まる。
───
「わかりました」
───
淡々と答える。
───
タスクが、頭の中に積み上がる。
───
でも、できる。
やれる。
これまでも、やってきた。
───
会議が終わる。
資料を閉じる音。
椅子を引く音。
───
誰かが笑っている。
誰かが歩いている。
───
じっとしている。
───
(このまま、ずっと続くのか)
───
任されることは増えた。
評価もされている。
───
でも。
───
(これが、自分の将来?)
───
画面を見つめる。
───
数字。
グラフ。
スケジュール。
───
全部、 誰かが決めたレールの上。
───
外側は慌ただしい。
でも内側は、冷たく止まっている。
昼:街の温度差
ビルの谷間を歩く。
湿った風が首筋をなでる。
───
空を見上げる。
灰色の雲が、低く垂れ込めている。
───
雨が降りそうだ。
───
コンビニの前で高校生が笑っている。
───
「マジ? それヤバくない?」
「ヤバいヤバい、超ヤバい」
───
その声が、 やけに大きく聞こえる。
───
でも、もう慣れた。
───
(あの頃は、もっと何か感じてた気がする)
───
いつからだろう。
感じることを、やめてしまったのは。
───
スーツの襟が首に張り付き、
シャツの中の熱が逃げ場を失っている。
───
(もう、何も感じたくない)
───
心の中で、そう呟いた。
午後:アオイとの対話
「さっきの会議、お疲れ様でした」
───
アオイが声をかける。
───
「……すごいじゃないですかー!」
───
「ハルさん、また大変なの任されてましたね」
───
「まあ、いつものことだから」
───
「すごいですよー、ハルさん。
私だったら、あんなにたくさん抱えられない」
───
(すごい、のかな)
───
ただ、断れないだけ。
やるしかないだけ。
───
「そんなことないよ」
───
「ううん。
ハルさんってすごく社交的だし、
仕事もできるし、頼りになる」
───
(社交的。仕事ができる。頼りになる。)
───
そう見えるなら、 学習は報われている。
───
───
「あ、そういえば」
───
アオイが、 スマホを見せてくる。
───
「そういえば先週、現在開発中の、
AIアプリの発表があったらしいですよ」
───
「……ああ」
───
「すごいらしいです。
従来のものとは全く違うんだって。
何が違うのか忘れちゃったけど」
───
「……そう」
───
(AI、か)
───
興味はない。
───
でも、 アオイは楽しそうに話し続ける。
───
「ハルさんは興味なさそうですね……」
───
「……いや、そんなことはないよ」
───
───
───
(AIに何を話すんだ)
夕方:居酒屋の笑顔
以前よりも減った飲み会。
それでも人が集まれば騒がしくなる。
───
笑い声。
拍手。
グラスの音。
───
…全てノイズ。
───
「ハル〜、それはさすがにやばいって!」
───
こういう場も、嫌いじゃない。
───
居心地が悪かった頃を思えば、
ずいぶん器用になった。
───
冗談も返せる。
ノリも合わせられる。
───
「ここだけの話ですからね!」
───
冗談めかして言うと、 また笑いが起きる。
───
笑いながら考える。
───
(いつからだろう。
この”できる自分”に守られて、
閉じ込められてる気がするのは)
───
社交性って、 筋肉みたいなものだ。
───
使えば使うほど、 痛みを感じなくなる。
───
トイレの個室に入る。
───
世界が一瞬、止まる。
───
静かだ。 鼓動だけが残る。
───
(なんか、砂になっていくみたいだ)
───
スマホの光が目に刺さる。
───
「今日も最高だった!」
「めっちゃ感謝!」
「努力は必ず報われる!」
───
全部、遠い。
───
画面を閉じる。
夜:帰宅後の静寂
玄関を開ける。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
───
そのまま、 ソファに座る。
───
時計の音。
冷蔵庫の低音。
遠くの車の音。
───
20分。
───
やっと、息ができる。
夜:雨の記憶
窓を開ける。
風が入ってくる。
───
雨の匂い。
土が、水を待っている。
───
あの夜も、雨だった。
───
「ハルちゃんはさ、
いつも途中で言葉を止めるよね」
───
当時付き合っていた人の声。
───
笑っていたけれど、
その目は笑っていなかった。
───
言おうとした。
───
でも、 言葉が霧に包まれて出てこなかった。
───
(言葉から、温度がするりと失われていく)
───
代わりに出たのは、
───
「最近、自分がわからなくて」
───
という説明だけ。
───
「……ごめん」
───
それしか言えなかった。
───
雨の匂いが濃くなる。
夜:自分ってなんだろう
ソファに座ったまま、
───
天井を見る。
───
───
(自分って何だろう)
───
───
仕事はできるらしい。
評価もされてる。
───
でも、
───
───
───
(これが、自分なのか?)
───
───
───
外側は、 うまくやってる。
───
───
でも、
───
内側は、
───
───
───
───
空っぽだ。
───
───
───
───
(昔は、こんなじゃなかった気がする)
───
───
───
いつからだろう。
───
───
感じることを、
───
諦めたのは。
───
───
───
いつからだろう。
───
───
自分の言葉じゃなくて、
───
誰かに合わせた言葉ばかり、
───
使うようになったのは。
───
───
───
───
(誰かに、見てもらいたかった)
───
───
(わかってもらいたかった)
───
───
(でも、見せ方がわからなかった)
───
───
(だから、外側を作った)
───
───
(でも、作れば作るほど、内側が見えなくなった)
───
───
───
───
───
───
息を吸って、
───
ゆっくり吐いてみる。
───
───
───
胸の奥が、
───
きゅっと縮む。
───
───
───
───
(……自分自身が、気持ち悪い)
───
───
───
外側に順応する自分も、
───
内側を無視する自分も、
───
───
───
───
嫌いだ。
───
───
静かに、床がきしむ。
───
───
───
───
───
でも、
───
───
───
どうしたらいいのか、
───
───
───
わからない。
深夜:翻訳の途中
ベッドに横になる。
───
天井を見る。
───
会議室での沈黙。
居酒屋での笑顔。
雨の日の記憶。
───
全部、 自分が消えていくようだった。
───
自分は空っぽだと思っていた。
───
───
でももしかしたら──
───
───
別な言語を話す時のように、
翻訳に少し、
時間がかかっているだけなんだよ。
───
そう誰かに言って欲しかったのかもしれない。
───
───
息を吸う。
───
吐く。
───
───
胸の奥で、 何かが少し動いた気がした。
───
───
───
遠くで雨の音。
───
───
あの日とは違う音。
───
───
少しだけ、 やわらかい。
───
───
───
───
(いま、翻訳中です)
───
───
心の中で、 そう呟いた。
───
───
───
暗闇の中で、 その音だけが、
───
少しずつ、
───
言葉になろうとしていた。
心呼吸ノート:言葉が出ないとき
言葉が出ないのは、
壊れたサインではなく、 翻訳中のサイン。
───
感情の温度が落ち着くまで、 言葉は待っている。
───
次に詰まったら、 心の中でこう言ってみる。
───
「いま、翻訳中です」
───
息を吸って、吐く。
───
言葉は、呼吸のあとに生まれる。
静寂の余韻
Between Words
闇は、終わりではない。
種が芽吹く前の、静けさだ。
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